プロであるとはどういうことか

先日、twitterでTLに流れてきた下の記事を読んだ。

「プロじゃなかった…」リストラで運転手になったミドルの重い一言

まあいいたいことはわかるんだけど、ちょっと違うんじゃないかなあ?

まず、「自分のかわりがいない」のが「プロ」かというと、それは違うと思う。
たしかに、「かわりがいない」ようなすごいひとはいる。でも、ほとんどの場合は、
かなり優秀な人であっても「どうしても、そのひとじゃないとできない」ようなことはないのよ。
そういう人間は「プロ」でないから、って、首になるかっていうと、私の限られた経験から
いうと、ならない。まあそりゃそうだ。「かわりがいる」人が大半なんだから、そんなことで
いちいち首にしてたら従業員がいなくなる。

そもそも、だれか特定の人間に依存しないでも運営できるのが組織の利点なわけで、だれかひとりの
スーパーマンがいなくなったら、組織ごと崩壊するようでは困るでしょう。とびぬけて優秀な人がいなくても、
ちゃんと組織が運営できるようになってなくちゃいけないし、実際、たいていの会社組織はそのようになっている。

ではなんで、このタクシー運転手のおじさんはリストラされちゃったのか。詳しくは書かれていないから、
勝手に想像するんだけど、たぶん、このおじさんは「立ち止ま」ってしまったんじゃないかな?
つまりどういうことかというと、何事も「これで極めた」てことはないんだよね。かなり突き詰めたつもりでも、
まだ知らないことはあるし、わからないことがある。かなりうまくできているつもりでも、まだもっと良くすることができる。
だから、プロは、というか、何かをする人は、つねに新しいこと、知らないこと、わからないことに挑み続け、
すでにかなりうまくできていることに対しても、「もっとうまくできないか」と問いかけ続けていかなくてはいけない。
このおじさんはそれができなかったんじゃないかな? 言い換えると、営業や、品質管理がそれほど好きではなかった。
ほかの誰か、たとえば中国人がうまくできるようになったら、もうそこであきらめてしまった。

私はコンピュータのひとなので、コンピュータの話で考えるんだけど、この業界は特に変化が激しいので、
「立ち止まる」ってことは考えにくい。立ち止まらない種類の人間が好んで集まってくるというのもあるけど、
たとえば、この21世紀に、「わたしはPL/Iしかわからないし、やるつもりもない。UNIX? Windows? わかりません。
IBMの汎用機ならわかります」といってたら、たぶんかなり仕事の間口が狭まると思う。そういうことなんじゃないかな?

だれかが、「日本の組織は無能な人には寛容だが、がんばらない人には厳しい」みたいなことを書いてたけどさ、
たぶん、今持ってる生産管理の知識ではイマイチ食えないけど、新しいことをやる気はあります、っていえば、
すくなくとも首にはならない気がするんだよね。

大村濱が書いてたけど、先生は偉いので、生徒に教えてやろう、なんていうのはまったく間違い。大きな「学問」というものの前では、
教師であろうが、生徒であろうが、おなじく小さい存在なのよ。ただ、先に始めたか、後から始めたかの違いに過ぎない。
教師であろうがなんであろうが、謙虚に、学び続けていく姿勢が重要。タクシーのおじさんでいうと、中国人に品質管理を教えた。
その結果、中国人たちはかなりうまくできるようになった。そんなことは問題じゃないのよ。「品質管理」という、大きなものの前で、
謙虚に、学び続けられるか、ってことが問われるんでしょう。

そう考えると、そういう「謙虚に学び続ける」姿勢を、仕事や、専門分野に持ち続けられるのがプロ、ってことなんじゃないかな?